花の香りが匂い立つ。
色街をゆく人々の足取りもどこか軽く、
長い冬の後に来た春を皆歓迎しているかのようだった。
穏やかな風が連れてきた花の香が辺りを包む季節。
それは、この色町も例外ではなかった。
***
「すっかり春の陽気だな」
その声に、欄干ごしに佇んでいた元就が振り返る。
長かった冬も終わり、
春めく色町は盛況を極めていた。
町の至るところに植えられた桜が花を咲かせ、街全体を彩る。
そんな桜を恋しい相手と見たいという人の性なのか、
ここを訪れる遊客はいつにも増して多い。
そんな俄に色めき立つ町の様が、
妓楼の上階、元就の自室からはつぶさに見渡すことができた。
「…確かに、そのようだな」
部屋から臨む景色に元就が口を開く。
思えば季節の移り変わりなど、
意識したのは随分と昔のことのように思えた。
ここに来てからというもの日々を平淡に、
娼妓としての務めを果たすことだけで生きてきた元就にとって、それは新たな変化であった。
それも全ては目の前に立つ男、
元親がここを訪れたのが始まりだった。
「それで、貴様は何故ここにいる?」
春の風に思いを巡らせていた元就だったが、
ふと思い立つと元親に向き直った。
「今日来るのは夜見世からのはずであろう」
「あぁ、それはそうなんだけどな」
衣擦れの音をさせてこちらを振り返る元就に、
元親が笑みを浮かべながら答えた。
色町の営業は二度に分かれている。
遊郭の娼妓達は昼と夜でそれぞれ客を迎えることになっているのだが、
今はその一つ、昼見世を前にして店が慌ただしくなる刻であった。
「なーに、ちょっとアンタの顔が見たくなってな」
「ここで油を売ってる暇があるのか、貴様とて稼業があるだろう」
「何、気を遣ってくれてんのか?」
「…馬鹿を言うな」
そんな慌ただしい時に現れては冗談めいたことを言う元親に、
元就の細い眉根があがる。
神出鬼没で奔放なこの男に、元就はいつも調子を狂わされる。
今ではそれも悪くはないと思えるまでになったが、
今回ばかりは話が別だった。
「用がないのなら帰れ、…今日の昼見世は先客がいる」
「先客?」
“先客”の一言に、今度は元親が問う番だった。
「以前よりの馴染み客が、花見の宴を催したいとの仰せ付けだ」
「なるほど、それでいつにも増して廓全体が慌ただしいってわけか」
衣服や髪を整えながら答える元就の傍ら、
元親が合点のいった顔で頷く。
その最中にも階下から慌ただしい物音が聞こえ、
今日の宴の大きさを物語っていた。
「にしても、店全体を巻き込んでなんざ、余程の御大尽なんだな」
「そうだな」
「…ご苦労なこったよな、店もアンタも」
言葉を交わしている間にも、元就は手早く身支度を整えていく。
鮮やかな萌黄に身を包んだ姿は相も変わらず息を飲むほど美しく、
思わず見惚れるものがあった。
「…我はもう出るぞ、いつまでそこにいるつもりだ」
そんな余韻を断ち切るような元就の一声に、
元親の思考は引き戻される。
「ちぇっ、もうお別れか」
「どうせ夜には来るのだろう、何を大袈裟な」
まるで暫く会えなくなるとでもいうふうな口ぶりの元親を尻目に、
元就は既に出立の準備を終えていた。
自身の前を通り過ぎ、階下へと向かおうとする元就。
そんな元就を元親は見送ろうとしたが、
「元就、」
その背中を見た瞬間、
思わずを彼を呼び止めている自身に気付いた。
「…どうした」
出かけに声をかけられ、
まだ何かあるのか、と咎めるような口調で元就がこちらを振り返る。
だが肝心の言葉はその先に続くことなく、
沈黙が訪れた部屋には色町の賑わいだけが流れた。
「…用がないならば、もう行くぞ」
「あぁ悪い…また後でな」
足早に自室を去る元就の背に向けた、小さな声。
その声がいつもとは違う気色を孕んでいたことを、
知っていたのは欄干からそよ吹く春風だけだった。
***
春の風は、時に姿を変える。
それがごく小さな、僅かなものであっても、
心の水面に波紋は立つ。
*2へ続く*
久々のチカナリ遊郭モノです!
久々でこっちも思いだすので時間かかってしまいました(笑)
そして次どうなるのかバレバレな雰囲気のまま続きます←←
続きをしばしお待ちをー。
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