剣を抜く音。
その音と共に、暗闇の世界は再び光を取り戻した。




*       *       *




ゆっくりと、

薬売りが瞼を開くとそこは先程の居間であり、
その真ん中に彼は佇んでいた。
外で遠く響く虫の音、
薄明かりに揺らめく行灯、
全てが元通りに、先ほどと変わらぬ姿でそこに存在していた。

まるであの暗闇での出来事が一瞬の夢であったかのように。



「これで、全て…終わり」



そう囁く薬売りの後ろで虫の音が谺する。
その音を聞きながら薬売りは居間の片隅へと視線を向けた。



「さて…露菊、さん」



「貴女には、迷惑をかけてしまいましたね」



薬売りの視線の先、
そこには先刻盃を交わした“本物”の露菊が倒れていた。
家鳴りによって気を失わされたのだろうか。
横たわる彼女の目は固く閉ざされていたが、
見たところ目立った怪我も無く、どうやら無事であるらしかった。

それを遠目に感じとった薬売りは微かに口の端を上げると、
懐に手をやり彼女に歩み寄った。



「これは…せめてもの、詫び賃に」



そう言って出したのは金子、
それも通常遊女と一晩を共にする揚代よりも幾分か多めのものだった。

取り出した金子を彼女の傍らに置くと、薬売りは立ち上がった。
誰にも知られず静かに、この場を去るために。


そうして後に残されたのは、露菊ただ一人。
遠くでは虫の音が遠く低く響いていた、
薬売りを送るように、
そして事の終わりを告げる唄のように。


*       *       *




灯かりが目映く点る夜の色街。
その中を一歩一歩、薬売りは音を立てずに歩く。
廓を出て色街を歩く最中、
彼は一言も喋らず、また振り返ることもなかった。
虫の音と街明かりを背に、只ひたすらその歩みを進めた。


だが色街の門をくぐり抜けた時ただ一度、



「願わくば…」



「あの家鳴りの二の舞は出ぬよう……それだけを願いますよ」





振り向き様のその声が凛と響いた。





遊廓、
人の念が渦巻き絡み合う、
光と影の世界。
此処は、物の怪に近しい浮世の世界。




彼が去り際に囁いたのは其処に存在する一抹の不安。


しかし当分の間、
この廓で再び奇妙な音と共に客が消えるという噂が流れることはなかった。






<<<完>>>
ここまでお付き合いくださりありがとうございます(土下座)